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16世紀​

このセクションでは、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台となった16世紀のニュルンベルクの視点から解説します。

​作品中に登場するハンス・ザックスや、マイスタージンガー制度が実在した時代です。

1.​

​中世ドイツ・ニュルンベルクの社会

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ハンス・ザックスが1542年から死ぬまで住んだシュピタル小路(現ハンス・ザックス小路)の家。アダム・クラインの版画

 ニュルンベルクの都市としての繁栄は、1219年に神聖ローマ皇帝のフリードリヒⅡ世によって「都市特権 Stadtrechte」を賦与されたことから始まります。神聖ローマ皇帝に直属する帝国都市の一つとして、世俗諸侯や教会権力からは独立した一定の自治のもとで勢力を伸ばし、16世紀半ばには人口5万人を有するドイツ屈指の大都会となりました。

 中世ドイツの街並みというと、木組みの家が立ち並ぶ美しい光景をまずイメージされると思いますが、活発な経済活動によって急激に人口が膨張したニュルンベルクの生活環境は必ずしも平和な楽園という訳ではなかったようです。狭い城壁内に居住空間を確保する必要から、3〜4階建ての住居が道路ぎりぎりまでぎっしりと軒を連ねていました。一軒の家に大勢の人間が詰め込まれ、中庭や道はゴミや汚物で溢れている。こうした不衛生な居住環境であったことから、1561年にペストが流行した際には人口の5分の1にあたる1万人の死者を出しています。

 また当時のニュルンベルクは、貴族的な寡頭制の厳粛な統制下にあり、階層のピラミッドによって社会の隅々まで差別意識につらぬかれていたようです。大半が手工業者からなる中流階級は人口の半分を占めるにも関わらず、手工業組合の力が市政に反映された他の帝国都市とは異なり、政治的な決定からは締め出されていました。都市貴族や大商人に抑えつけられていた手工業者も、自分たちより下の階層に対しては差別意識をむき出していました。職人や徒弟(ダーヴィト)、家事使用人(マグダレーネ)、下級吏員(夜警)、浮浪者、売春婦などは、「市民(Bürger)」の下の「下層民」とされており、手工業の階級制度の中で職人や徒弟は奴隷のように扱われていたといいます。

​2.

マイスタージンガー (職匠歌人) とは?

 本業として種々の手工業を営みながら作詞と作曲にいそしんだ詩人兼音楽家、今日のシンガーソングライターです。都市に定住した商人や手工業者は兄弟団を結成して宴会の席で仲間の歌をうたっていましたが、これらの市民の歌のなかから、14世紀にはマイスタージンガーが生まれ、 15〜16世紀に南ドイツの諸都市を中心に栄えました。

 

 「マイスタージンガー組合」では、手工業の組合制度に倣って、歌唱芸術にも5つの階級が設けられ、最高位である親方(マイスター)になるためには、徒弟、門人、歌手、詩人の4段階を通過することが必要とされました。

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 仕立屋や靴屋、織工などが日曜日の午後に教会やツンフト館に集まり、厳しい規則にのっとって自ら作詞・作曲した歌を審査員の前で歌い、合格するとマイスタージンガーの資格を得ることができました。マイスタージンガーは個人的な感情の吐露をできるだけ避け、教化を目的としたスコラ的な枠組みのなかで宗教的な題材を扱っていました。この点でマイスター歌は民衆の俗謡とは一線を画していました。

 ワーグナーは、ヴァーゲンザイル著『ニュルンベルク年代記(1697)』などの文献を丹念に読み込み、独自の作品を作りました。史実に変更を加えながらも、「歌学校」、「資格試験」、「記録係」、「タブラトゥーア」など、マイスタージンガーにまつわる制度や仕組み、彼らの活動については、作品全体を通して描かれています。作中に登場するマイスタージンガーたちの名前も『ニュルンベルク年代記』から抜き出されています。

第一幕では、エーファと結婚するためにマイスターになりたいというヴァルターに、ハンス・ザックスの弟子のダーヴィトが、マイスタージンガーの仕組みについて詳しく説明しています。

3.​

ハンス・ザックスについて

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51歳のハンス・ザックス

ザックス『悲喜劇傑作集』(1588)より

 作中の重要人物の靴屋の親方ハンス・ザックスは、実在した偉大なマイスタージンガーです。1494年にニュルンベルクで生まれ、15歳から靴屋に奉公するかたわら、リンネル織りの親方リーンハルト・ヌネンベックから歌の手ほどきを受け、生涯に4374篇のマイスター歌、約2000の「祝詞歌 Spruch」、120以上の悲喜劇、謝肉祭劇85本、散文対話7篇を残しています。

 作品のテーマは、ルター訳聖書の一節、古い教会制度への風刺、時事的な出来事の記録(1529年:トルコ軍のウィーン包囲、45年〜:トリエント宗教会議、46年:ルターの死、57年:アルキビアデスの敗死、61年:ペストの流行)、道徳的な教訓を盛り込んだ寓話など多岐に渡ります。

 ルターの宗教改革(1517年〜)は、マイスタージンガーたちの芸術傾向にも大きな影響を及ぼし、「ルターの教えを拡げる道具」ともなりました。ザックス自身も、ルターの思想に深く傾倒し、1523年に寓意版画入りの詩『ヴィッテンベルクの鶯』を発表しました。

 

 靴屋のマイスターとしても誇りを持っていたのか、「靴屋の組合こそいと高きもの、この上なく大切な職業」と歌っています。また作中のザックスは、規則に塗り固められたマイスタージンガーに新しい風を吹かせようとしますが、歴史上のハンス・ザックスにもタブラトゥーア (Tablatur, 歌学校の規則)の不毛さを批判した詩『怠惰な記録係の罰』(1518年)があります。

4.

マイスタージンガー組合の組織と活動

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ニュルンベルクのタブラトゥーア(1635)

「記録係」の役割に関する部分

 組合への入門審査は、聖トーマスの日(12月21日)の前の会合と決められており、マイスターに師事した経験の有無、歌学校(公開の歌唱コンクールを指す)への定期的な出席、酒亭で会員への紹介が済んでいるかどうか、賎民でないことなど資格要件を確認した上で、詩と歌の基礎知識に関する口頭試問と、持ち点7点で歌唱試験が行われました。組合へは紹介なしには入れず、マイスターには新参者の身元を保証する義務がありました。

作中では、騎士であるヴァルターは金細工師でマイスタージンガーのポーグナーの紹介として歌学校に参加し、新人にも関わらずいきなりマイスターの資格試験にのぞみますが、その際、始めにマイスターたちから身元、マイスター師事の有無などの質問を受けます。

 歌学校は「本歌唱 Hauptsingen」と「自由歌唱 Freisingen」の2部門からなります。点呼に始まり、自由歌唱ののち、全員の斉唱を経て本歌唱に移ります。「本歌唱」は宗教歌に限られ、芸術性の高さではなく、持ち点7点の減点方式により規則からの逸脱の少なさが競われました。

 判定はマイスタージンガーたちの中から互選された「記録係 Merker」が担当します。この記録係は「ニュルンベルクのタブラトゥーア」では、4名と定められ、それぞれ、ルター訳聖書の文言との照合、歌詞の規範違反の点検、押韻の書き取り、旋律の確認を分担していました。歌学校の一週間前に出場者に歌詞を提出させ、公序良俗や市当局の禁令に触れていないか検閲するのも、記録係の重要な仕事の一つでした。

 

 「ニュルンベルクのタブラトゥーア」には、「記録係の役割」など一般的な規則の他に、作詞上と歌唱上の減点対象となる33の禁則と各項目の減点数が記されています。

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歌学校。歌唱席と記録席ーニュルンベルクの「フィリップ・バーガー、歌手、記録係にして靴屋が1637 年に」寄進したガラス絵

歌い手は歌唱席に座って歌い、反則が7点を越えると「歌い損ね(versungen)」が宣言されます。しかし『マイスタージンガー』の作中とは違い、記録係は間違いを大勢の前で指摘するのではなく、本人にだけこっそりと教えなければなりませんでした。

 

減点が7以下であれば「マイスター歌 Meistergesang, Meisterlied」として認められ、命名の儀式が執り行われたのちに、「マイスター歌登録簿 Meistergesangbuch」にマイスター歌の名と誕生年月日を記載し、櫃に収められ保管されました。

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帝国の森に囲まれたニュルンベルク(1516年)

 上がロレンツの森、下がゼバルドゥスの森で、市に注いでいるのがペグニッツ川。この図は南が上部に描かれている。

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16世紀半ばのニュルンベルク

参考資料
ーワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』池上純一・三宅幸夫編訳、白水社、2007年

ー阿部謹也『中世の窓から』朝日新聞社、1993年

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