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​学生の対談2 芸術について
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​対談メンバー

はっしー:国際人間科学部グローバル文化学科3回生。中高で吹奏楽に所属しクラリネットを吹いていた。現在は茶道部の副部長として部をとりしきる。

ふーちゃん:国際人間科学部グローバル文化学科4回生。中高で吹奏楽、大学で合唱を経験。ミュージカルが大好きで、最近はアートとエンターテインメントの違いに興味を持っている。

 

きりちゃん:国際文化学研究科1回生。ピアノ演奏が趣味で、あまり世に知られていない作品を弾きたがる。クラシック音楽、特にロシアの作品が好き。

ワーグナー作品の"魅力"とは?

はっしー:ワーグナーの作品ってなんかものすごく物語の世界に引き込まれますよね。第3幕でのザックスの演説部分とか特に。初めて『マイスタージンガー』を鑑賞したとき、自分自身も感情的になってしまっていました。有無を言わせない雰囲気もあったし、ザックスの言うことに対してみんなが同調していたからかなあ。

 

ふーちゃん:ザックスは、舞台上の人々に向けて話しているのだけれど、観客に向かって語り掛けているような錯覚に陥ることがあるから、それが観客を引き込んでいるのかも。

 

はっしー:なるほど。そもそも、正直言って批判するべき点は最初にざっと通して観たときには思い浮かばなかったのですよね。今は多面的に研究して問題点も浮かんできていますけど、どちらかというと作品に対して肯定感のほうが強かった気がします。

 

きりちゃん:「ワーグナーの毒」と言われるものですね。

 

はっしー:毒??

 

きりちゃん:ワーグナーの完全無欠な総合芸術の圧倒的な力のことを指しています。この魔力のようなものに観客が呪縛されてしまって、登場人物に激しく感情移入し、舞台と自分とが一体化してしまう。そして最後には、この上ないカタルシス(※舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることによってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心の中に鬱積(うっせき)している同種の情緒を解放し、それにより快感を得ること。)を体験して劇場を後にする。観客は一方的に受身の存在になってしまうということですね。

 

はっしー:なんだかおぞましい表現ですが、私も受け身の存在になっていたということですね笑

 

きりちゃん:このワーグナー作品の特徴を批判した人もいるのですよ。劇作家であり詩人で演出家でもあったブレヒトは、「ワーグナーの楽劇においては、観客が自分の想像力を羽ばたかせ、観客同士が自由に批評し合う余地が残されていない。ワーグナー体験とは、結局のところ現実逃避である。」と考えていました。ブレヒトは、ワーグナー楽劇へのアンチテーゼとして、「異化効果」という、観客がドラマの世界へと没入して舞台上のリアリティと自分とが一体化してしまう状態を妨げる仕掛け、つまり感情移入させない手法を生み出した

のです。

 

はっしー:どうやって??あえて違和感を創り出すということですか?

 

きりちゃん:そういうことですね。ドラマの進行とはほとんど無関係な場面やエピソードを挿入したり、急に役を離脱してナレーター的立ち位置に移ったりと様々な技法があります。彼はマルクス主義の影響も受けていたので、舞台と主体との間に距離を確保し、その余地の中で観客が自由に批評し合い、現実社会を変革するためのヒントをつかめるようにしようと試みていました。

 

はっしー:へ~~。確かに急に物語の流れに合わない演出があったら嫌でも現実世界に引き戻されちゃいそうですね笑 それにしてもブレヒトもワーグナーも政治的背景を感じさせますねえ。

きりちゃん:少し話がそれてしまいましたね。ふーちゃんはワーグナーの魅力はなんだと思いますか?

ふーちゃん:他の魅力として、私は、ドイツオペラは、観客に考えさせるような深い作品が多いと思いました。何度見ても、新しい視点が見つかってもっと深く思考したくなるような。そういう作品は、一度見て「楽しかった!」で終わるのではなく、長期的に心をつかんで離さないから、それがドイツオペラの時代を超えた魅力になっているのではないかと思います。ワーグナーの作品はそれが顕著なのかもしれないですね。 

 

きりちゃん: ワーグナーの総合芸術論からもわかるように、音楽だけでなく文学や他の芸術も巻き込んで作品をつくったというあたりが彼の音楽や詩の壮大さに繋がっているのではないかと思います。ワーグナーはそういう総合芸術を生み出した先駆けだったわけですね。

 

ふーちゃん: 確かに!様々な芸術的要素を盛り込んだ総合芸術であるところは、とても魅力に感じます。じゃあ、『マイスタージンガー』では総合芸術って作品のどのあたりに表れているのでしょうか…。

私が思うには、ワーグナーの作品には「神話」のモチーフが多く出てくるような気がしています。例えばワーグナーの『ニーベルングの指環』という楽劇はゲルマン神話が物語のモチーフであるし、『マイスタージンガー』でもヴォルフガング・ワーグナー演出の1999年公演のものでは最後にダヴィデ王の旗を掲げているから、あらゆるところに古代の神話や伝説的な人物の存在が感じられます。

 

はっしー:神話ですか…。そもそも神話とはどういうものなのでしょうか?

 

ふーちゃん:神話というと、ギリシャ神話やローマ神話が有名ですね。少し説明すると、神話はメルヘン(おとぎ話)とは異なり全くの空想ではなく、古代からずっと営まれてきた人々の暮らしの中で結晶した、いわば「経験知」が、神や英雄の姿を借りて物語となったものです。つまり人々の暮らしとは切り離せないものなのです。

古代ギリシャでは「ギリシャ悲劇」によって神々や英雄を崇拝し、共同体への帰属意識を得ていました。ワーグナーにとってはそれが理想の「芸術作品」であり、人々が共同体として連帯を深めていくことが理想の社会だったのですね。そのため彼は「近代の神話」として『ニーベルングの指環』をつくったということです。そうした彼の考えは、『マイスタージンガー』の物語にも染み込んでいるのかもしれません。

 

はっしー: なるほど…。「神話」と「芸術」の関係はとても奥が深そうですね。そういえば、確かに『マイスタージンガー』のヴァルターが歌合戦で用いた歌詞の中にも「エデンの園」や「パルナッソスのミューズ」といった、神話起源の表現が出てきますね。さまざまなところに神話のモチーフを見つけられて、ちょっとした宝探しをしている気分です。

 

ふーちゃん: さて、そろそろ時間ですね。最初の「ワーグナーの魅力が何なのか?」という問いに対してですが、これまで話し合った魅力たちが、世界中の人々を惹きつけて離さないということなのでしょうね。日本でもワーグナー協会という組織がありますし。

 

はっしー: 「ワグネリアン」(注:ワーグナー愛好家のこと)という言葉もあるぐらいですもんね。

 

ふーちゃん: 「ワグネリアン」の中には、私たちぐらいの若者もいるのでしょうか?

 

はっしー: どうでしょう…?確かにクラシック自体、若い人の愛好家って少ないイメージがあります。これについては、次のトピック「大衆芸術と高級芸術について」で話し合ってみましょうか。

 

 

 

 

はっしー:「高級芸術」といえば、日本では特に「ハードルが高いもの」に見られている気がします。私たちが所属している【神戸大アートマネジメント研究会】では、年に一回、子どもたち向けにクラシックコンサートを開いているのですが、そこで毎年課題として挙がっているのが、「クラシックの敷居が高い」という点なのです。どうすればクラシック音楽が身近なものに感じられるようになるのでしょうか。

 

ふーちゃん:「高級芸術」という言葉にこそ、ハードルが高いというイメージが植え付けられてしまっていると思います。この言葉はいつ、どこで生まれたのでしょうか。

 

はっしー:「高級芸術」および対となる「大衆芸術」という概念が登場したのは19世紀ヨーロッパの都市社会です。この時代、都市に大量に流入した低所得・低学歴の労働者たちは、日々の仕事の合間の余暇を過ごすのに親しみやすく、わかりやすい「大衆芸術」を必要としており、以後それは理解に一定の教養を要する絵画や演劇、オペラなどの「高級芸術」と対置されることになりました。

 

きりちゃん:そうなのですね。「高級芸術」と「大衆芸術」はどのような基準で区別されるのでしょうか。

 

はっしー:それは今でも明らかにはなっていません。C・グリンバーグの『アヴァンギャルドとキッチュ』では、「後衛」との対置によってこそ「前衛」の水準が確保されうるとの立場が明解に表明されていますが、この理論は多くの作家・批評家の批判の的ともなってきました。「ポップ・アート」の台頭は、後期資本主義社会における「高級芸術」と「大衆芸術」の分割に重大な疑問を問いかけてきました。

 

きりちゃん:冒頭の話に戻りますが、子どもたち向けのクラシックコンサートは毎年どんな感じで開催されているのですか?高級芸術の裾野を広げたいという思いがあるということですか。

 

ふーちゃん:芸術至上主義者らが高級芸術を高尚なもの、大衆芸術を低級と見なしていたことは間違いないです。しかし私たちのコンサート活動は、クラシック音楽を高級芸術だとみなすのではなく、演奏形態や作品の面においてまだあまり知られていない一面を織りまぜながらクラシックの魅力を発信し、子どもたちに楽しんでもらいながらも想像力・創造力を培えるような仕掛けになろう。そして、その場だけで終わらない『学び』を持ち帰ってもらおう。」という考えが活動の原点となっているのではないでしょうか。「高級芸術」と「大衆芸術」は時代の流れのなかで一部の人々によって作り上げられた価値観であって、現在は本来芸術には高級も低級もないという当たり前のことに気づかされ、さらにその区別が無化されてきつつあり,脱芸術という運動さえもみられているように感じます。

 

はっしー:そうですね。毎回、クラシックの中でも毛色が異なった演奏者さんを招いているという点で、「あまり知られていないものの魅力をもっと発信していこう」という考えの方が強いですね。昨年はピアノとクラシックサックスのデュオコンサートを行い、今年はフルートアンサンブルの方々に出演していただく予定です。会場が神戸市の垂水区なので、いつも神戸市や明石市の小学校にチラシを配布しています。それを見た子どもたちに申し込みをしてもらう形です。

 

きりちゃん: なるほど…。説明ありがとうございます。そのコンサートは、一般的なものよりも敷居を低くして人が集まりやすいように配慮しているのが伝わってきました。一方で、そもそもどんなに工夫したり広報したりしても、(オペラを含む)高級芸術を受け取る側が、どれぐらい芸術に興味を持ってくれているのかが難しいところですよね。

 

きりちゃん: ふーちゃんはどうでしょうか?

 

ふーちゃん:そうですね、高級芸術というと、例えばクラシックとかオペラとかなのかな…。たぶんチケット代が高くて、日本ではお金に余裕のある人たちが見に行くように思われているジャンルのものだと思ったのですが…。私はミュージカルに興味あるので、なにかとミュージカルに結び付けて考えてしまいます。例えば「ミュージカル」と「オペラ」って舞台芸術としては多くの共通点がありますが、一般的にミュージカルはオペラよりも大衆寄りのジャンルにされているように思うのです。それはなぜかというと、理由の一つに、ミュージカルには「スター性の高さ」というものがある気がします。出演者に知名度があって、その人の演技が見たくて来るお客さんが多い。

一方オペラの方は、スター性というよりも、作品全体の音楽性の高さとか技巧の高さで観客を惹きつけているように思います。あくまで私の感覚ですが。で、音楽性や技術力は、そのジャンルをよく見に行っている人や、それについての知識を持っている人にしか、よく分かりにくいところがあると思うのです。そういう「一部の人だけが分かる」感じが高級芸術に繋がっているのかな、と感じました。

 

はっしー:他には、日本では特にクラシックなどの芸術が「高級なもの」と思われすぎているのかなとも思います。以前ウィーンを訪れたことがあるのですが、そのときに観光客は着飾ってオペラに行っている人が多かったように思うのですが、現地の人の中にはラフな格好の人もいました。しかもチケット代の安い立見席で見ている人が多くて驚きましたね。

また、美術館でも敷居の低さみたいなものを感じました。クリムト作の《接吻》という有名な絵画のあるベルヴェデーレ宮殿に行ったときに、《接吻》の前で子どもたちが座って先生の話を聞いているのを見かけたのです。ものすごく有名な絵画を目の前に、小学生ぐらいの男の子女の子たちが10人弱で地面に座って、先生のお話を聞いている…。こういう光景ってなかなか日本では見られないと思います。それぐらい芸術教育がされているのだなと感じましたし、美術品に対する考え方もかなり違うのだなと思いました。ヨーロッパでは美術館内の撮影がOKなところが多いですが、日本だとまだまだ少ないですし、そのあたりが、日本で芸術の敷居が高くなっている理由の一つなのではないかと考えています。

 

ふーちゃん:よく言われていることだと思いますが、「芸術の敷居が高い」というのは、日本で「芸術=公共のもの」という見方が少ないのも一つの理由になりそうです。ヨーロッパと日本では市民へのアプローチが異なるのでしょうか。

はっしー:小さい頃からの習慣や積み重ねで、価値観が出来上がってしまいますよね。ヨーロッパでは学割もすごく浸透していますが、日本では割引率も小さいですしね。

 

ふーちゃん:こういう議論って堂々巡りになってきそうですが、根本の問題を考えてみると、やはり子どもたちへの「教育」を変えなければならないのでしょうか。

 

はっしー:学割の体制を整えるにしても、国や地方公共団体の補助の仕組みが必要だと思いますし、「教育」する側の大人たちが、まず新しい考え方を身につけないといけませんよね。

 

ふーちゃん:確かに結局のところ、どこかの時点では教育する側を「教育」しないと始まらないですもんね。子どもは勝手に育たないし…。

 

きりちゃん:「教育」の問題に関してなんですが、日本だと学校教育では、「音楽」の科目は、入試などその後の進路を作っていく科目とは別物という感じがありますよね。「主要5教科」なんて言葉が当たり前だと思われているけど、美術や音楽は、どうして主要科目から排除されているのでしょうか。一週間当たりのコマ数も少なくなりがちですし。学校のスケジュールを考えると、しかたのないことなのかもしれませんが、そうなると音楽が好きな子や、小さい頃から家庭環境によって音楽と関わってきた子を別にすると、学校教育だけで子どもたちの心を掴むのは難しいような気がします。

 

はっしー:確かに、今でさえたくさん授業があるのに、これ以上小学校の授業数が増えたら子どもの負担も大きくなるでしょうしね。

 

ふーちゃん:それに、現在は新型コロナウイルスの影響で学校が休みになっていたり、短縮されていたりという状況があるから、学校の授業もさらに今後のスケジュールが厳しくなっていますよね。そうなると、入試に必要ではない、いわゆる副教科のコマ数を減らそうという動きも出てくるかもしれない。「体育」は健康のため、目に見えて必要だから減らされにくいかもしれないけれど、「音楽」や「美術」などはその効果が心理面において長期的に出てくるもので、目には見えにくいですから、削減される危険が大きいと言えるかもしれません。特にこういうコロナのときには、そういう風潮になりやすいのかもと思いました。

 

はっしー:うーん、そうなるのは本当に避けたいですね。

きりちゃん:(総括して)試行錯誤しながらでも、人と芸術を近づける工夫をして幼い頃のうちから芸術と親しむ環境をつくっていくのが大切なのかなと思いました。

 

はっしー:そうですね。難しいけどすごく大事なことだと思います。これを踏まえて、先ほど新型コロナウイルスの話も出たので次のトピックに進みましょう。

 

 

はっしー:コロナ禍において危機的状況にある芸術文化について考えていきたいと思います。アーティストさんの金銭的な面、行動面においても制限があり、厳しい状況にあります。今後どのような影響が出ると考えていますか?

 

ふーちゃん:インターネット上の技術や芸術が発展していくような気がします。芸術以外でも、仮想空間が広がっていきそうです。先日も仮想で設定した劇場の稽古をZoom上で見学させてもらいました。見学者のみならず、演者の方たちも皆、それぞれの場所から発信されていました。それぞれの演者の方がそれぞれのご自宅で演技をされているのをまるで層(レイヤー)のようにひとつの画面に重ね合わせることでひとつの劇作品を作るというもので、斬新で面白かったです。このような仕組みが普及していけば、だんだんと当たり前になっていきそうです。将来的に映画『サマーウォーズ』のバーチャルの世界のようになるのかなと。生の芸術の意義を見出しておく必要がありそうですね。

 

はっしー:私は逆に、生の芸術の需要が上がるのではないかと。(高級芸術ではないとしても、)コロナの影響でバンドやJPOPなどのライブに行けなくなったとショックを受けている友達の話をよく聞きます。ライブの代わりにYouTubeなどで配信が行われているようですが、生演奏を聴きたいという欲求が高まっている印象を受けました。25年ほど前からインターネットが台頭し、オンラインでのライブ配信やYouTubeなどでの動画配信が出てきたことで、生の芸術でなくても良いのではという声もあったと思います。しかしコロナ禍によって実際に本物を見てみたいという欲求が掻き立てられているのではと考えました。芸術文化からは少し逸れるかもしれませんが、例えば『インスタ映え』が一時前に流行りましたよね?

 

ふーちゃんきりちゃん:そうですね。

はっしー:写真のみで満足できるのなら、他のユーザーの投稿からいくらでも『映えスポット』の写真をInstagram上で見れば良いわけです。実際に自らそのスポットに行きたいという感情が、オンライン上に溢れている情報によって掻き立てられているのかもしれません。『コト消費』というのがキーワードになって、芸術に限らず生の『コト体験』が重要になってきているのではないかと考えます。コロナ禍において台頭したオンラインの芸術が従来の生の芸術文化に対する刺激という考え方もありますが、私としては、オンラインの芸術が生の芸術文化に対して良い作用をもたらす可能性もあるのではないかと考えました。

 

きりちゃん:すごく新鮮な考え方!コロナ禍においては、音楽などのコンテンツをオンラインで楽しむ事しかできませんが、その状態に満足してしまう時が心配です。私たちの知覚や感覚そのものが変化してしまうかもしれない。コロナが収束した時に劇場やホールに出向く人がいなくなるのではないでしょうか。もちろん病気の予防という観点で、コロナ収束後すぐにホールや劇場に足を運ぶことは難しいかもしれませんが…。とにかくオンラインコンテンツで満足してしまうことが心配です。

 

はっしー:たしかに感染リスクの面では生の芸術の需要がすぐに高まるとは考えていません。オンライン配信を進めるにしても、無料にしてしまって良いのかという疑問はあります。無料で配信されることによって芸術は無料で享受できることが当たり前となってしまうのは良くないですよね。でも、オンラインで公開することによる新たな客層の開拓という意味ではプラスの面もありそうです。最近ではニコニコ動画で日本センチュリー交響楽団の演奏が配信されていました。3/28に無料公演として生配信し、20~40代が7割超を占め、新たな客層への手応えを感じた、と5/4の朝日新聞で掲載されていました!無料配信をゆくゆくは有料化する計画も立てているみたいです!聴衆が演奏を聴いてニコニコ動画上でコメントを書き込むことで、普段はなかなか届きにくい声が演奏者側にも届くのではないでしょうか。

 

ふーちゃんきりちゃん:なるほど。

 

はっしー:双方のキャッチボールが可能になりクラシック音楽を提供する側にも新しい視点が生まれ、オンラインでの活動が促進されることで文化も新しい方向に進んでいけるのではないでしょうか。高級芸術に関してアーティスト側が持っている理想や型も大きく変わっていくのではないかと思いました。

 

ふーちゃん:これを機に高級芸術に対しての敷居が良い意味で下がりそうですね。

 

はっしー:敷居が下がることで新しい芸術が芽吹くのではないかという前向きな期待もあります。これはコロナ禍に限らず、ポストコロナ期においても、新たな芸術文化の構築に繋がるのではないかと思いました。

 

ふーちゃん:『マイスタージンガー』にも出てくるゲノッセンシャフトのように、苦しい状況の中でも皆で助

け合おうという運動やプラットフォームが今の日本でも出てきているのではないでしょうか。

 

はっしー:『マイスタージンガー』にもあったように、外部からの刺激によって凝り固まった社会を良い方向に持っていくという新しい流れが起こること。これは今の世界との共通性を感じます。

 

ふーちゃん:たしかに。コロナウイルスのように、外部からのものが常に良いとは限りませんが。

 

はっしー:刺激の対象が違うといえども、新しい社会へと変わるチャンスが与えられているという点では『マイスタージンガー』の時代と今は似ているのではないかと思います。

 

ふーちゃん:今までひとりひとりが頑張っても変わらなかった社会構造が、コロナによって一気に変わっている感じがします。(きりちゃんに対して)ピアノの演奏者としての視点からは、今の状況をどのように感じますか?

 

きりちゃん:本番が立て続けになくなるような状況になったことで、本番があるからこそ頑張れていたということや誰かに演奏を聴いてもらえることのありがたさを痛感しています。捉え方を変えれば、今は家での時間がたくさんあるので、音楽そのものに向き合えるときなのではないかなと思います。普段ならば弾かないような作品に挑戦したり、作品の背景を文献で勉強してみたりとか。

 

ふーちゃん:人前で見せるということが、かなりの原動力になっていたということですね。おうち時間が増えることで、ピアノを触る時間は増えましたか?

 

きりちゃん:そうだといいのですが…そうでもないです。

 

はっしー:今まで創作活動(※楽器、絵、料理など様々なものを含む)をやっていなかった人にとっては、おうち時間が増えたことが何かしら新しいことを始めるきっかけにつながっているのではないかと思います。私も電子ピアノを最近購入し、小学生の頃ぶりに練習しています。そのような点で、アーティストと聴衆との距離が近づいてきているのかなと思います。

 

きりちゃん:それだと、オンライン配信なども距離を縮めるきっかけになりそうですね。

はっしー:ポストコロナの時代がどうなるのか、まだ読めませんね。ポストコロナにおける芸術文化に何を期待しますか?

 

ふーちゃん:今まで芸術は敷居の高いものだったけれど、少しでも敷居が低くなればポストコロナの時代に芸術が浸透していくのではないかと思いました。でも、一般の人も創作活動に励めるようになったら、芸術と趣味との違いもなくなってくるのかなと。その中で芸術が芸術である意味を探していかなければならないのではと思いました。

 

きりちゃん:ポストコロナの時代には、オンラインのコンテンツと生の芸術がどちらも良い持ち味を活かして共存できれば良いなと思いました。そのための仕組みづくりが大事だと思います。クラシックには馴染みがないかもしれませんが、生の演奏を聴きに来れば出演者との交流の時間も持てるとか。

 

はっしー:アーティストや観客との関係がポストコロナにおいて良い方向に変わっていけばいいですね。

大衆芸術と高級芸術について

ポストコロナ時代の芸術文化について

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