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19世紀​
​ワーグナーの生涯

 リヒャルト・ワーグナーは1813年、ドイツの商業都市ライプツィヒで誕生しました。

 彼は演劇と音楽に恵まれた環境に育ち、最初は演劇を志していました。しかし、ベートーヴェンが作曲した「交響曲第九番(第九)」と出会ったことで、彼の未来は決定づけられました。この曲が彼に啓示したのは、偉大な思想を表現する音楽の素晴らしい“可能性”だったのです。特に声楽を加えたフィナーレに絶大な感銘を受けたワーグナーは、その延長線上に自らの音楽の方向性を見出しました。それに近いのがオペラというジャンルだったのですが、当時のオペラの主題は他愛のない色恋沙汰を集めたものにすぎませんでした。ただ同じドイツの作曲家ウェーバーだけがオペラで民族的なもの・ロマン的なものを取り上げていました。そこでワーグナーはベートーヴェンとウェーバーの音楽思想を参考に、いっそう強力なオーケストラの表現力を自らが理想とする芸術の在り方と結びつけようとしたのです。

 

 彼がまずオペラの題材として目を付けたのは、“ゲルマン民族の神話や中世の伝説”でした。さらにキリスト教的な“贖罪思想”をも劇に盛り込むことで、彼は物語のレベルで従来のオペラから脱却しようとしました。

 また、彼は初期の作品ではある程度伝統的なオペラの慣習に従っていましたが、『さまよえるオランダ人(1840)』『タンホイザー(1845)』『ローエングリン(1848)』などのオペラから、本格的に自らの理想を音にし始めます。これらの作品で彼は、台本はもとより美術や演出のプランまで担当。さらに音楽面ではこれまでの常識であった「アリア(旋律的な独唱曲)」と「レチタティーヴォ(叙述的な独唱曲)」の区別を曖昧にし、管弦楽と声楽パートを融合させ、優美で趣き深い音楽空間を作り上げました。

 

 『トリスタンとイゾルデ(1859)』はその究極の形と言えます。こうしたことから、『トリスタンとイゾルデ』以降の彼の作品を一般的なオペラと区別して<楽劇>と呼ぶことが定着しました。

 

 ここで少し、彼が生涯をかけて目指した総合芸術としての<楽劇>ができるまでの経緯についてお話ししましょう。そもそも当時総合芸術であるオペラの上演には、さまざまな困難がつきものでした。さらに彼は1849年ドレスデンで起こったドイツ三月革命運動に参加し、国外追放されたりもします。しかし弱冠18歳のルートヴィヒ2世が国王の座について、状況が一変します。国王はワーグナーのオペラで育ち、その上演を支援するために、惜しみなく国費を使ったのです。こうした経済的な支援というチャンスが、ワーグナーの劇と音楽の高度な一体化を図る<楽劇>という構想に没頭する機会を生み出していきました。

 <楽劇>の土台となったのは、彼が芸術に対して抱くある考えでした。すなわち、「芸術は人間全体の表現であり、そのためにオペラは総合芸術作品とならねばならず、その骨格であるドラマの実現に、台詞も音楽も一体となって奉仕するのが真の芸術である」としたのです。そしてその結果、彼がこの理念にのっとって制作した根源的な芸術が、後々〈楽劇〉と呼ばれるに至りました。

 ちなみに、〈楽劇〉という語はワーグナー自身の造語ではなく、むしろ彼はこの名称を好みませんでした。この語は音楽とドラマを合わせた形であり意志に反する、むしろ音楽が他のジャンルと共にドラマに奉仕すべきであるというのが彼の主張だったからです。彼自身、〈楽劇〉の代わりとなるべき名称をいくつか提案しましたが、結局世の認めるところとならずこの名称が定着しました。

 

 さて、彼は〈楽劇〉という名のもと様々な作品『トリスタンとイゾルデ(1859)』『ニュルンベルクのマイスタージンガー(1867)』『ニーベルングの指環(1874)』を生み出し、これらは公開当初から絶大な人気を誇りました。なかでも『ニーベルングの指環(4部作)』は上演するのに4日間、計15時間以上という膨大な時間が必要であるにも関わらず、今でも数多くの人々に愛されている代表作の一つとなっています。

さらに晩年には、先ほど述べたルートヴィヒ2世をはじめとする多くのパトロンからお金を集め、自分の作品だけを上演するバイロイト祝祭劇場を建設しました。現在でもこの劇場では毎年ワーグナー作品を上演するバイロイト音楽祭が行なわれ、熱心なファンが世界中から訪れています。

 ちなみに、この音楽祭をドイツ社会に定着させるのに貢献した人物がいます。それはコジマ・ワーグナー、ワーグナーの2番目の妻であり作曲家フランツ・リストの娘です。彼女は、フランス仕込みの教養と上流社会での社交術に長けていました。バイロイト事業の実現へ向けてヨーロッパ中の上流階級の支援を得られたのは、コジマの人脈のおかげでした。ルートヴィヒ2世の支援なしには祝祭劇場は完成され得ませんでしたが、コジマの支えがバイロイト祝祭の実現を可能にしたと言っても過言ではないでしょう。

 

 こうして従来のオペラをより次元の高い総合芸術へと昇華させ、優美な官能性を持って聴き手を舞台の世界に誘う〈楽劇〉を大成させたワーグナーは、1883年ヴェネツィアにてその生涯を終えました。

​ワーグナー略年譜 

1813 5月22日ライプツィヒに生まれる

 

1830 七月革命、政治への目覚め

1834 《妖精》完成(初演は1888、ミュンヘン)、ドイツロマン派オペラ

      ラウベからの影響、サン=シモン主義受容、青年ドイツ派時代

1836 《恋はご法度》初演、イタリアオペラ風、コスモポリタン宣言

~39 ケーニヒスベルク、リガでの指揮活動

     パリ時代 音楽家小説・音楽論、ハイネと接触、プルードンを読む

1842 ドレスデン時代 《リエンチ》初演、グランドオペラ風

 

1843 《さまよえるオランダ人》初演、ロマン派オペラへの回帰

 

1845 《タンホイザー》初演、ドイツ・カトリック運動(ロンゲ)ヘの共感

 

1847 プラトン『饗宴』、ギリシャ悲劇、トリスタン伝説の研究

 

1848 《ローエングリン》完成、ヘーゲル左派への接近、バクーニンと交友

1849 ドレスデン五月蜂起に参画し指名手配、スイス亡命

     チューリヒ時代 フォイエルハッハ研究に没頭 『芸術と革命』、『未来の芸術作品』

 

1850 『音楽におけるユダヤ性』、《ローエングリン》初演(リスト指揮、ヴァイマル)

1851 『オペラとドラマ』、『友人たちへの伝言』

 

1852 《ニーベルンクの指環》台本完成(フォイエルバッハ版結語)、ヴェーゼンドンク夫妻と知り合う

1853 《ラインの黄金》作曲開始

 

1854 ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』を読み傾倒

   《トリスタンとイゾルデ》の最初の構想(第三幕にパルジファル登場)

 

1856 《ヴァルキューレ》完成、(《指環》ショーペンハウアー版結語)、《勝利者》構想

 

1857 建設中のヴェーゼンドンク邸に隣接した「隠れ家」に入居、《ジークフリート》第二幕で中断、

   ワーグナー家夕食会でミンナ、マティルデ、コジマの三人が初顔合せ《トリスタン》台本完成しマテ

   ィルデに献呈(9月)、《トリスタン》作曲に着手

 

1858 8月「隠れ家」からの退去、ミンナと決別、ヴェネチアへ、《トリスタン》に没頭

   「性愛の形而上学」(ショーペンハウアー宛手紙の断片)

 

1859 8月《トリスタン》完成、カールスルーエより上演不可能の知らせ

 

1864 ウィーン宮廷歌劇場で77回の稽古のすえ『トリスタン』上演取りやめに

    ルートヴィヒ二世バイエルン国王に即位し、ミュンヘンにワーグナーを迎える

 

1865 《トリスタン》ミュンヘンの宮廷劇場で初演、トリスタン役カルロスフェルト死去

    内閣、国民のワーグナー攻撃が激化し、ミュンヘンから追放

 

1866 ミンナ死去、スイスのトリープシェン移住、コジマ『わが生涯』の口述筆記開始

 

1868 《マイスタージンガー》ミュンヘン宮廷劇場で初演、ニーチェと初対面

 

1872 バイロイト移住 ニーチェ『悲劇の誕生』

 

1874 《ニーベルンクの指環》四部作完成(初演1876)

 

1877 《パルジファル》台本完成、『芸術と宗教』(1880)などショーペンハウアーの影響

 

1882 《パルジファル》総譜完成、初演

1883 2月13日ヴェネチアで死去、69才

作成:藤野一夫

参考文献
ー海老沢敏・稲生永(監修)『ガイドブック音楽と美術の旅 ドイツ』 音楽之友社、1995

ー田村和紀夫『クラシック音楽の世界 名曲で読み解く!西洋音楽の歴史としくみ』

 新星出版社、2013

ー片岡功・吉川文・岸啓子・久保田慶一・長野俊樹・白石美雪・高橋美都・三浦裕子・茂手木潔子・塚原康子・楢崎洋子『決定版 はじめての音楽史』音楽之友社、2017

ー西村理(監修)『よくわかるクラシックの基本』西東社(2011)

ー藤野一夫『祝祭の共同体 ワーグナーの総合芸術プロジェクト』

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