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​ユダヤ人の歴史

 長い間、故国なき民としてヨーロッパなどで移動、移住を繰り返してきたユダヤ人ですが、そのような生活に身を移すことになった経緯は何だったのでしょうか。

 ユダヤ人に関する古い記述のうち有名なものの一つに、ペルシャ王によるバビロニア捕囚があります。解放後の時代から、ユダヤ人のディアスポラ(離散)が始まったと言われ、ローマ帝政初期の時代にすでに400万人のユダヤ人がローマ帝国の辺境地にまで散在し住んでいました。ユダヤ人の故国喪失を決定的にしたのは、紀元後66年から70年にかけての「ユダヤ戦争」です。この戦争では、エルサレムの神殿がローマ軍により完全に破壊されました。また、その後パレスチナのユダヤ人によるローマ軍への最後の抵抗であったバルコホバ戦争(A.C. 132-135年)でもハドリアヌス帝下のローマ軍に敵わず、以後ユダヤ人はエルサレムに住むことができなくなりました。

 このような経緯から、1948年に再びイスラエル国家を建設するまで、ユダヤ人は祖国なき民としてディアスポラ(離散)生活をすることになるのです。ちなみにドイツにユダヤ人団体が住み始めた最古の記録はこれらの事件が起こる前、B.C. 321年にケルンに滞在していた時のものです。このころからすでに、ユダヤ人は兵士、通商人、職工、農民としてドイツに移住してきていました。

​故郷からの追放
1.

 ヨーロッパにおいてユダヤ人の迫害が始まったのは第一回十字軍(1096-99年)からです。ここでは、救世主キリストを殺し、神から呪われたことによって放浪の身分にあるユダヤ人は、キリスト教徒の敵とみなされました。軍資・物資に乏しかった十字軍は、わざわざ寄り道をしてまでユダヤ人ゲマインデ(共同体)を襲ったのです。ユダヤ人迫害の具体的な理由としては、しばしば「聖体冒瀆(キリストの聖体とみなされる教会のパンを盗んですりつぶす)」と「幼児殺し(キリスト教徒の子どもの生き血をユダヤ教の典礼に利用する)」が挙げられていました。もちろん、これらは根も葉もない噂にすぎませんでした。

 このころから、ヨーロッパではことあるごとにユダヤ人に罪を転嫁する証拠のない噂が流れるようになりました。ユダヤ人が武器と食糧でモンゴル人のドイツへの侵入を手助けした、ペストの流行はユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだからだ、などはその一部です。これらの噂によって、ユダヤ人はたびたび大規模な迫害を受けることとなりました。

 それでもユダヤ人がヨーロッパで生活していくことができたのは、キリスト教社会では原則として禁止されていた「高利貸し」という彼らの職業が、ヨーロッパの諸侯にとって欠かせないものとなっていたからです。とくに封建制度が遅くまで残り、小さな領封君主や騎士領などがひしめいていたドイツでは、国際商取引網や金融力を持っていたユダヤ人が重宝されました。戦費や軍事物資の調達者としてはもちろん、国家財政の顧問や資金提供者としても登用され、税収の大部分もユダヤ人に頼っていました。

 こうして、ヨーロッパ中で根強い迫害に合いながらも、ユダヤ人は比較的遅れてドイツで地位を築き、啓蒙主義以降、ユダヤ人解放令によってドイツ語圏に集まるようになったのです。

​ヨーロッパにおけるユダヤ人
2.

 ここまで、「高利貸し」としてのユダヤ人について述べてきましたが、ユダヤ人はその他にも様々な分野で活躍しています。1905年からワイマール時代にかけてノーベル賞を受賞したドイツ人の実に25%がユダヤ人であったことは、当時のユダヤ人の人口が全ドイツ人口の1%であったことからは驚異的なことです。その他にもユダヤ人には、医者や弁護士などとして活躍する人が多くいました。これは、ユダヤ人の経済的な優位性と教育水準の高さからきていると言われています。そのようなユダヤ人でしたが、ヨーロッパで素直にその功績が認められる事例は多くありませんでした。

 ヨーロッパの中で再び反ユダヤ人感情が隆盛したのは、第一次世界大戦時です。実際のデータでは戦線におけるユダヤ人の割合は高く、困難な状況下で武器の調達を行っていたのもユダヤ人でしたが、「商取引に熱中し、大もうけをしているユダヤ人の非協力」と国民から叫ばれました。また、プロイセン軍事省の戦時原料局長であり、戦後は外務大臣を務めたユダヤ人実業家ラーテナウが、その思い切った外交政策から「ユダヤ人ラーテナウを撃ち倒せ」と批判され、テログループの凶弾により殺害されるなどの事件も起こっていました。戦争の原因や敗因すべてをユダヤ人のせいにするような考え方が出てきたのです。

 このように、反ユダヤ的な思想が盛り上がってきていた矢先にドイツに現れたのがヒトラーでした。ヒトラーは徹底的な人種政策により、文化の創造者としての優秀なアーリア人と文化の破壊者としてのユダヤ人を対置し、劣等人種であるユダヤ人は駆逐されるべきであると述べたのです。ここから、恐ろしい計画が始まってしまうのでした。

​反ユダヤ思想の隆盛
3.

 ヒトラー率いるナチス党の下では、過去の歴史で類を見ないほど壮絶なユダヤ人迫害が行われました。「ホロコースト(ギリシャ語で「焼かれた生贄」)」と呼ばれるユダヤ人の大量虐殺は、第二次世界大戦後世界に知れ渡ると、人々に大きな衝撃をもたらしました。

 戦時下においてヒトラーの独裁支配を決定的にしたのが、1933年に成立した「全権委任法」です。この法律により、当時最先端の民主的憲法であったワイマール憲法や議会から解放されたヒトラーは、直ちに市の職員であるユダヤ人を追放しました。ここから徐々にユダヤ人の権利が剥奪されていくことになります。ユダヤ人の軍役資格の剥奪、ドイツ人との結婚・性交渉の禁止(ニュルンベルク法)、選挙権の剥奪、医師・大学教授・教員などの職業禁止、財産の登録義務、学校への通学禁止、黄色のユダヤの星印付加義務、労働法上の保護撤廃、新聞・雑誌等の購入禁止、公的公共機関の利用禁止、全ての法的保護の剥奪など、時間が経つにつれ、ユダヤ人の権利はみるみる奪われていきました。

 また、同時に強制収容所への輸送も行われました。戦争後期になるとユダヤ人の絶滅が目標とされ、ガス室でユダヤ人を殺すためだけの絶滅収容所も作られました。「ユダヤ人問題の最終解決」と呼ばれましたが、これは実はドイツだけの問題に還元できない複雑な背景があります。ヨーロッパ社会全体におけるユダヤ人問題の最終解決。その根本には、ユダヤ教と、そこから出てきたキリスト教との根深い対立があります。いずれにしても、最終的に約600万人のユダヤ人が強制収容所で亡くなったとされています。

 この責任は、ヒトラーをはじめとする幹部だけのものではありません。このような行為を、ドイツ人は「見て」いました。反対せず、または反対することができず輸送されていくユダヤ人を見ていたのです。このことへの罪の意識から、今日のドイツ社会ではホロコーストへの反省が徹底してなされています。「ホロコースト」は彼らにとって大きな意味を持つ言葉であり、これからも考え続けなければならないものとなりました。

​ナチス下のユダヤ人
4.
ー大澤武男『ユダヤ人とドイツ』講談社現代新書、1991
参考文献
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