20世紀前半
続いては19世紀を生きたワーグナーの思想的影響を色濃く受けている人物たちが登場する20世紀前半についてです。ご存知の方も多いように、反ユダヤ主義的側面を持っていたワーグナーの思想は、第二次世界大戦においてドイツを率いたヒトラーに大きな影響を与え、歴史に残る大迫害を引き起こしました。
ここでは、ワーグナーが亡くなったのち、彼の思想がどのように人々に影響を与えたかということ、また『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が第二次世界大戦下においてどの様な意味を持っていたかについて述べていきます。
1.
ワーグナー没後のワーグナー家
ワーグナーは、音楽家であり、革命家でした。彼が生涯で残した楽劇や思想は、後に残された彼の家族が引き継いでいきました。なかでも、ワーグナーの2人目の妻であるコジマは彼の亡き後も彼の思想を引き継ぎ、ワーグナーが楽劇の中で理想とした世界を創り上げることのできる人物を求め続けていました。
そんなとき、彼女のもとに現れたのがイギリスの明敏な思想家で、人種主義者でもあったヒューストン・スチュアート・チェンバレンです。彼はコジマとの親密な交友と、彼女の娘エーファとの結婚により、ワーグナー家に入ることとなりました。難解なワーグナーの思想と世界観を大衆が理解できる通俗哲学的な言語に翻訳し、誰でも扱うことができるテーゼに変換したのも彼でした。
コジマは彼にワーグナーの後継者としての期待をかけましたが、そんな彼も重い病気にかかってしまいました。そんな時に、ワーグナー家を訪れたのが当時すでにワーグナーのことを信奉していたアドルフ・ヒトラーだったのです。
2.
ヒトラーとワーグナー
*1) ヒトラーにとってドイツ民族の統一とは
ヒトラーにとってドイツ民族とは「アーリア人」でした。徹底的な人種主義を貫いていたヒトラーは、第一次世界大戦によってドイツが手放したアーリア人の住んでいる地域を一つにまとめ、外部のその他の人種によって脅かされている現状を打開しようと考えました。第二次世界大戦を通してヒトラーはアーリア人の住む地域を次々と併合し、優勢人種であるアーリア人による帝国を実現しようとしました。
死の淵にあったチェンバレンは、訪れたヒトラーに救世主の影を見ました。資本主義的な世の中を改革し社会をユダヤ性から開放していくことができるのは、このヒトラーしかいないと確信したのです。彼はヒトラーに「救世主」としての役割をあたえました。ここから、ドイツ民族の統一(*1)と文化の繁栄を目指すヒトラーの戦いは、更なる使命感を帯びていくこととなります。
ヒトラーにとって、ワーグナーは「神」と言ってもよい存在だったかもしれません。少年のころワーグナーに出会ったのち、彼はワーグナーが舞台上で表現した理想の世界を、現実世界に出現させるための預言者としての役割を意識するようになりました。
ワーグナーの思想を現実に落とし込む中で特に歴史に大きな爪痕を残したのは、ワーグナーの反ユダヤ主義的側面です。ワーグナーは、資本主義社会において起こりうる全ての悪は「ユダヤ的なもの」から来ていると述べています。外部からやってきて、一切の創造的な発明をせずドイツ人の創造したものを真似することしかできないユダヤ人は、人類に退廃をもたらす変幻自在の悪魔であるとさえ述べており、「滅亡」だけが彼らに「救済」をもたらすとしていました。
この思想を現実世界において国家単位で実行したのがヒトラーでした。彼は、ユダヤ人の撲滅を目指して、大量虐殺を行います。国中のユダヤ人を絶滅収容所に送り込み、民族を根絶やしにする計画を立てたのです。彼は、ユダヤ人を殺すことによって彼らを「救済」していると本気で信じていたのでした。
3.
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』にみる反ユダヤ性
ヒトラーがどのようにこの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を政治的利用したかを解説する前に、この作品に暗に含まれている反ユダヤ性の問題について先に述べておきましょう。
ワーグナーは自身の論文『音楽におけるユダヤ性』の中などにおいて反ユダヤ主義を公言しています。彼はユダヤ人が創る創作物は常に模倣であって創造性にかけるとし、そのような作品が資本主義社会において商品化されていることに嫌悪感を覚えています。ワーグナーにとってユダヤ人は「人類の敵、悪魔」とも捉えてよい民族であり、「滅亡」だけが彼らに「救済」をもたらすとしていました。
そのようなワーグナーの反ユダヤ主義思想は、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に登場するベックメッサーという人物からみてとることができます。
第一に、先ほども別の章で述べましたが、ベックメッサーのモデルはエドゥアルト・ハンスリック(ハンスリッヒと発音することもできます)というウィーンの音楽批評家であると言われています。最終的にベックメッサーという名前に落ち着いたものの、1861年に成立している原稿においては「ハンスリック」という表記がみられるという事実もあります。この人物はワーグナーの音楽を「無限旋律」や「未来音楽」と呼んで批判しました。ちなみに「未来音楽」という言葉は、日常のドイツ語では「絵に描いた餅」といった意味。ワーグナーの楽劇は荒唐無稽だと揶揄したのです。しかもハンスリックはユダヤ系でした。そこでワーグナーは反撃に出ます。ハンスリックは、実際にこのマイスタージンガーの公演を見て、ベックメッサーが自分への当て擦りで、笑い者にされているのを感じ、憤慨したそうです。
第二に、このベックメッサーという人物はワーグナーが論文の中で述べているおぞましいユダヤ人像にぴったり合致しているとみることができます。第三幕の第3場、第5場はまさにワーグナーのユダヤ人へのステレオタイプが色濃く反映されていると言って良いでしょう。
第三幕第3場では、ベックメッサーがヴァルターの詩を盗む場面が展開されます。ユダヤ人は音楽面においても剽窃しかしないのである、というワーグナーの思想が反映されています。このベックメッサーによる窃盗行為は実は校正が進んでいくにつれて後から付け足されたものです。ここからもワーグナーが恣意的にこの行為を行わせたことがみてとれます。また、ベックメッサーにとってエーファは愛の対象ではなく、莫大な財産をもたらすものとして描かれています。ここにはユダヤ人の金銭的ながめつさを見てとることができるでしょう。
第三幕第5場では、ベックメッサーがヴァルターの創った詩をうまく歌うことができず、元々の美しい詩から醜い言葉に変えて歌ってしまい、民衆の笑い者になる様子が描かれています。この場面は、真にドイツ民族ではないベックメッサーには、美しく正しいドイツ語を歌うことができなかったという様子を表していると見ることができます。
一方、もう一つの見方として、実はベックメッサーは正しく歌っていたが、民衆の側がユダヤ人に対して色眼鏡のかかった目で見ていたために歪曲した形で受け取ったと考察することもできます。もちろん劇中で歌詞は歪められているのですが、私たちも日常生活においてそのように、偏見の目で相手を見ることによって事実が、違った形で認識されているかもしれないという危険性を心にとめておくことも大切ですね。
4.
バイロイト祝祭劇と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
*2)野戦病院とは
野戦病院とは、戦時下の野外病院のことを指します。
負傷した兵士を応急治療し、戦線へ復帰させる、もしくはより設備の整った病院へ搬送します。バイロイト祝祭には、負傷した兵士が多数招待されていました。
バイロイトはヒトラーにとって一種憧れの場所でした。そのため、1924年にバイロイト祝祭劇が再開した際の喜びは計り知れないものでした。
祝祭劇再開の晩には、コジマ演出により伝統的な舞台セットで『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が上演されました。このオペラの中では帝国が「外国の偽りの尊厳の中で」崩壊しても「ドイツ的で真なるもの」は「聖なるドイツ」の中で生き続けると述べられます。そのザックスの告白部分で観客は立ち上がり、最後には全員でドイツ国家が歌われたと記録されています。
ちなみにこの時、ヒトラーはミュンヘン一揆により捕らえられており、実際に祝祭には参加していません。獄中で彼は、かの有名な『我が闘争』を執筆しましたが、その際に必要な紙やペンなどはすべて、コジマの息子の妻であるヴィニフレート・ワーグナーに用意してもらうなど、ワーグナー家とは相変わらず親しくしていました。
その後、ヒトラーは積極的にバイロイトの祝祭劇に関わっていくようになります。1933年にはすでにバイロイトの祝祭劇はヒトラー劇と言って良いほどになっていました。売れなくなっていたチケットを買い占め、劇場を「招待客」で満たしました。1935年からは、第三幕の祭りの場面を、「旗が立ち並ぶ党大会のように演出すること」を指示しました。それによって見ている観客に舞台上で起こっていることと現実との錯綜が起こりました。
1943年には、第三幕に出てくる民衆の中にナチスの親衛隊が入り、休憩のファンファーレすら彼らが吹くようになりました。観客の中には野戦病院(*2)から来た人もいました。
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は戦争で疲れた心を歓喜で満たし、数日後には戦線に戻っていく人たちを奮い立たせる効果を持っていました。それほどまでに、ワーグナーの第三幕最後のフィナーレは圧倒的であり、外部の侵略から愛する故国を守るために殺戮は必要なのだと人々に思わせることができました。実際に、シュトラスブルクから来た擲弾兵は「ささやかな感謝のしるしとして、ドイツの本質と思想に対する敵にふさわしい報いを与え、巨匠の作品と精神を敵に決して傷つけさせないよう、常に全力を尽くします」と語ったようです。
1944年になっても、ヒトラーは祝祭劇が悪化する戦況の影響を受けないように配慮していたようであり、彼の理念の実現のために祝祭劇は重要なものでありました。
5.
党大会と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
1927年からニュルンベルクで開催されるようになった党大会は、10日間にも渡る式典、行進、会議、夜の儀式などを連続して行うことによってヒトラーとの一体感を演出しました。この式典の中でも『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は不可欠なものとされています。別の章でも述べたようにニュルンベルクは、ハンス・ザックスやアルブレヒト・デューラーを生み出した都市であり、また数世紀の間ユダヤ人の定住を禁止していた都市でもありました。ワーグナーがこの都市を「ドイツの真ん中」と呼んでいたこともあって、ヒトラーは最終的にこの場所を、民族祭典としての党大会の場所に定めたと言われています。
1933年の党大会の会議は、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の前奏曲によって始まりました。ヒトラーは「将来、非アーリア人のドイツでの芸術活動を許さない」と、ここで約束しています。
1935年の「自由の党大会」は悪名高い「ニュルンベルク法」が制定されたことで有名です。フェルトヴェングラーの指揮による『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の特別公演が行われ、出席者はユダヤ人の剽窃的な芸術に対するアーリア人の芸術の勝利を確信しました。
また、党大会自体もさながらワーグナーのオペラのような演出を常に伴っていました。ヒトラーの登場の際の音楽、行進、話し方、全てが舞台の上での出来事のようでした。
ヒトラーは自身の演説にも、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の要素を取り入れています。このオペラと同じようにライトモチーフ(*3)を幾度も演説の中に織り込むことで聴衆をとりこにし、第三幕の「はじめよ!」という言葉や、ハンス・ザックスの詩による祝辞を述べたと言われています。
このような演出は、民衆の熱狂を引き起こしました。舞台上で奇跡が起こるように、ヒトラーによる奇跡は起こりうると人々に期待させたのです。
*3) ライトモチーフとは
オペラの中で決まった登場人物、事象、心理などが表現される際に、同一の音楽的な主題を用いることで、オペラ全体に音楽的な統一感をもたらす手法です。
5.
まとめ
このように、第二次世界大戦下においてヒトラーはワーグナーを信仰し、彼の作品を、理念を、現実世界において実現させようとしました。ヒトラーにとっての理想郷はそこにあったのです。しかし、ワーグナーという一人の人間が生み出した世界をすべて現実に反映させることは不可能でした。「理想」をそのまま力尽くで「現実」に変えようとすることの恐ろしさがここで露わになったということができるでしょう。
戦後、この『ニュルンベルクのマイスタージンガー』という作品は、ナチス時代の反省を生かし、様々な演出によって新しい解釈をもたらすという挑戦に挑みます。
その話は、また次の章でお話ししましょう。
1942年「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
フルトヴェングラー指揮、演奏ベルリンフィル
AEGというドイツ最大の電機メーカーのベルリン工場でプロパガンダとして演奏
1943年「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
バイロイト音楽祭での演奏
ー鈴木淳子『ヴァーグナーと反ユダヤ主義 「未来の芸術作品」と19世紀後半のドイツ精神』株式会社アルテスパブリッシング、2011
ーヨアヒム・ケーラー、橘正樹[訳]『ワーグナーのヒトラー 「ユダヤ」にとり憑かれた預言者と執行者』株式会社三交社、1999
ー礒山雅[編集長]『ワーグナーヤールブーフ 1995』東京書籍株式会社、1996 より 山崎太郎「ワーグナーの考えたライトモチーフ」