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19世紀​
​激動の時代に生まれた
​『マイスタージンガー』

1.​

​ロマン派の誕生

 18世紀ヨーロッパで主流だった啓蒙主義は、理性を重視し過ぎ伝統を軽視する傾向がありました。また、民族や地域に固有の「文化」よりも、いつでもどこでも誰にでも共通する「文明」、つまり個性的なものよりも普遍的なものを重視する傾向がありました。しかし、19世紀になると、それに対する反動としてロマン主義が生まれてきました。ロマン主義は、理性よりも人間に本来自然に備わっている感情を重視し、それを自由に表現することが良しとされました。ロマン主義はまた、なによりもまず個人の人間性を尊重する芸術でもありました。

 社会や政治の面からみれば、フランス革命により、ヨーロッパの絶対主義体制の一角が崩れた後、ナポレオンの出現と彼の敗退、その決着をつけるべく開かれたウィーン会議とそれによる反動体制、さらに民族国家の独立を目ざしての革命や国民運動といったように、社会体制を根本から揺り動かすような激動が続いた世紀でもありました。国によりそれぞれに事情は違っていたとはいえ、自然権思想とフランス革命によって打ち立てられた「人間は平等である」という思想は、人々の中に深く浸透していくことになりました。そして自由と平等を基礎としながら、個人的な感情を大切にするロマン主義の思想は、フランス的な価値観である普遍的な文明よりも民族や地域に固有の文化を重視することで、啓蒙主義の限界を克服しようとする運動といえます。

2.​

​ドイツナショナリズムの高揚

 ナポレオン戦争後、ウィーン議定書によってドイツ連邦が成立しましたが、このドイツ連邦は35の君主国と4つの自由都市から構成されたものであり、統一国家とは言えないものでした。しかし、プロイセンを中心として、ドイツ統一国家形成を目指す動きが現れ始め、次第に大きくなっていきました。 

 ワーグナーの生涯は、ヨーロッパの近代国民国家の成立期と重なります。経済面と政治面での近代化に遅れをとったドイツでは、文化的共同体の意識的な再形成が実際の政治的国家統一に先行しました。1830年の七月革命から48年の三月革命に至る時期は、ドイツにおける音楽祭の第一次最盛期であり、多くの音楽祭が地方都市で開催されました。音楽祭の運営組織は、すべて音楽愛好家(フィルハーモニー)によって担われていたので、音楽祭によって、ドイツ人の国民意識が共同形成されただけでなく、その企画運営を通して、民主主義的精神に基づく市民的公共圏が紡ぎ出されていきました。

 ワーグナーが当時宮廷劇場の楽長を務めていたザクセン王国の首都ドレスデンでも、民主的憲法と国民議会にもとづくドイツ統一国家を求める運動がエスカレートしました。3月革命前夜のワーグナーは、宮廷劇場を、より市民に開かれた国民劇場へと改革する民主化案を上奏しましたが、ザクセン宮廷が提案を拒否したため、彼の政治姿勢は一気に急進化したのです。1849年5月のドレスデン革命に首謀者として参画したワーグナーは、革命の鎮圧にともない指名手配されました。九死に一生を得てスイスに逃れた彼は、ここで十数年におよぶ亡命生活を送ることとなったのです。

3.​

​注目を集めるニュルンベルク

 ロマン主義とナショナリズムの高揚を背景に、中世の面影を残す地方都市ニュルンベルクは、ドイツ的な民族精神が守られる地として注目を集めるようになりました。こうした潮流に乗って、「ニュルンベルク民族祭」や「全ドイツ歌唱祭」など、国民国家の樹立へ向けてニュルンベルクをドイツ民族統合の象徴に押し上げようという動きが加速するようになったのです。

 若き日のワーグナーもニュルンベルクを訪れていました。歌手集めの旅に出た際、彼はニュルンベルクの酒場で歌自慢の指物師(木工品の専門職人)の親方が笑いものにされている場面に出くわしたそうです。またその直後、些細なきっかけから起こった騒ぎが高じて、暴動がおこる寸前、鉄拳の一撃を合図にさっと潮が引くように騒ぎがおさまる光景を目撃しました。この時の体験が、第三幕でベックメッサーが歌い損ねて恥をさらす場面と、第二幕最後の群衆による殴り合いの場面に投影されています。

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​ニュルンベルク民族祭の様子

4.​

​『マイスタージンガー』誕生への長い道のり

 1845年、『タンホイザー』を完成させたワーグナーは、悲劇の後に滑稽な劇を上演した古代ギリシャの慣例に従って、喜劇的なオペラを作ろうとしました。ケルヴィヌスの『ドイツ国民文学史』を読んで、ニュルンベルクのマイスタージンガーやハンス・ザックスという人物について知ったワーグナーは、『タンホイザー』と同じく歌合戦を題材にしたオペラの草稿を書きますが、この草稿は短く軽い喜劇でした。しかし、先ほども述べたように、ドレスデン革命の首謀者として国外で逃亡生活を送ることになったため、いったん喜劇の構想からは遠ざかります。1861年、ワーグナーは、ヴェネツィアを旅し、アカデミア美術館でみたティツィアーノの『アスンタ(聖母昇天図)』に「かつての気力はまた身内に燃え上がるのを感じ『マイスタージンガー』を仕上げようと心に決めた」と著書の『わが生涯』で語っています。

 1861年12月に台本の執筆にとりかかり、翌年1月に台本を完成させます。しかし、作曲はなかなか進まず、全曲のスコアが完成したのは1867年の10月でした。

 1868年6月21日、ミュンヘン宮廷劇場にて『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は初演を迎えました。劇場全体は天井桟敷に至るまで多くの観客が押し寄せました。第一幕の幕が下りると、観客たちは感激しワーグナーを呼び求めたといいます。第二幕では、場面ごとに観客の間にセンセーションが巻き起こりました。幕が下りると、興奮した人々は再びワーグナーを呼び求めて絶え間なく叫び続けました。出演者のカーテンコールが終わってもその声はやまず、国王の要請によってワーグナーは貴賓席の手すりのところに進み出て、大きな感動を胸に、ここから無言の感謝の意を表明したそうです。初演は大成功であり、観客の胸に大きな感動を残したのです。
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​『マイスタージンガー』初演時の様子

5.​

​『マイスタージンガー』初演

参考文献
ー音楽之友社編『ドイツ・オペラ 下 ワーグナー』音楽之友社、1999年

ーワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』池上純一・三宅幸夫編訳、白水社、2007年

ーチャンパイ/ホラント編『名作オペラブックス23 ワーグナー ニュルンベルクのマイスタージンガー』音楽之友社、1988年​

ー藤野一夫「バイロイト祝祭への長い道」『演劇人』24号、(財)舞台芸術財団演劇人会議、2007年

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